#記憶

 灯りのついていない真暗な部屋の中。唯一、月だけが部屋を照らしていた。

「・・・っ。あ・・・は・・・っ」

 軋むベッドの音。シーツの擦れる音。荒い息づかい。ベッドの上で官能に揺れる素足。

「・・・もっと締めてみろ」

 男に言われるがままに従う。

 とたん、強く突き上げられ高い嬌声を上げた。

 激しい男の動きに気を失いそうになるが、必死に薄れていく意識を取り戻す。

 ここで気を失ったら、更に酷い事が待っていた。

 何故こんな事になったのか・・・。いくら考えても解からない。

 今、解かることは―――この男から、逃げられないという事。






 目が覚めると隣りには誰もいなかった。正確には、あの男が。

 だるい腰を庇いながら、雅人は上半身を起こすとベッドから降りた。そのまま洗面台の鏡を覗く。

 いつ見ても女顔だ。

 雅人は溜息を一つ吐くと、顔を洗った。

 不意にビクリと肩が震える。

 鏡の向こうに男の姿が見えた。

 腕を組んでただ雅人を見ていた。―――睨みつけるように。

「・・・ここ、使うの?」

「・・・ああ」

 素早くタオルを掴み取った雅人は、それきり男の顔を見ること無くその場を去った。

 しばらくすると水音が聞こえてきた。男がシャワーを浴びているのだろう。

「・・・シャワーくらい、先に使わせろよ」

 まだ関係が浅い頃、男はまだ寝ていたので雅人は先にシャワーを浴びたことがあった。

 しばらく浴びていたのだが、視線を感じてか背後を振り返ると今日と同じに男が入り口で雅人をただ見て・・・・・・睨んでいた。

 何か用なのか、と訊ねてみても何もいわない。

 居心地の悪くなった雅人は、蛇口を捻ると逃げるように浴室を後にした。

 その後、すぐに水音が聞こえてきたので、きっと雅人が先にシャワーを使ったのに腹を立てたのだろうと予想した。

 それ以来、雅人は先にシャワーを使ったことはない。

 再び溜息を吐いた雅人は、男が用意していた朝食を手にした。

 男は毎朝雅人の為に、起き掛けに朝食を作る。

 最初は萎縮していた雅人だったが、今では何も思わない。

 日々の男が雅人に強いていることを思えば、それも当然だと思えてきていた。

 男と出会った一年前。

 念願の大学に合格し、通いなれた頃の五月だった。

 しかし、男の名前は前から知っていた。とにかく有名だったのだ。

 男の名前は麻塚 耕輔(あさつか こうすけ)といった。荒んだ高校時代を送ったはずの耕輔だったが大学に入り、心を入れなおしたというのが専らの噂であった。

 荒んだ高校時代というのは、いわゆる不良・・・だったらしい。

 それが大学に入ったとたん格好も真面目になり、出席も良くなったという。

 耕輔に何があったかなんて知らないが、きっと彼の本質は変わっていなかったのだろうと、今にして思う。

 ある日の夜、バイトの帰りにいつも通る公園の横道を何気なく歩いていた。さすがに深夜らしく人一人いない。

 それは突然だった。

 暗くて見えなかったのか、意識して見ていなかった所為か、目の前に来るまでそこに人が立っていたことに気付かなかった。

 気付いた時には、すでに公園の隅に押し倒されていたのだ。

「や・・・っ」

 止める間もなく耕輔は雅人の服を剥いでいく。

 身をよじっても身動きが出来ないことを知ると、恐怖心が一気に雅人を襲った。

「やめ・・・っ。やぁ・・・っ!!」

 もう訳が解からなかった。

 誰のものか解からない手に自身を握られ、擦られて、舐められて・・・。

 気がついた時には淫らに腰を振っていた。

 不意に躯の奥に違和感を感じた。

 ビクリと躯を揺らした雅人を見て、男は口の端を吊り上げると一気に雅人の後庭を貫いた。

「―――――――っ!!」

 激痛で声にならない悲鳴をあげた。

 逃げようと腰をよじると余計に痛みが増す。

 どうにもならないことを悟ってしまった雅人は、おとなしく目を閉じていた。

 構わず腰を振りつづける男。

 不意に見たことが有ることに気がつく。この時に男の正体に気がついたのだ。

 目が合うと男は唇を合わせてきた。

 嫌だったが抵抗する気力も無かった。

 最初は強姦だった。今でも強姦ではないとも言えなくはない。

 ただ、今ではすっかり慣らされてしまい、すでに強姦とは言えないだろう。

 それに、そのときから一緒に住んでいるのだ。和姦と見なされても仕方がない。

 あの夜のことがあってから、雅人の日常は180度変わってしまった。

「雅人」

 不意に声を掛けられた。

「・・・なに?」

 振り返ると、そこにはタオルを肩に掛けた男―――耕輔が立っていた。

「今日も大学に行くのか?」

 何か知らないが、耕輔いつもは雅人を大学へ行かせたくないようなのだ。

 そして、この会話は毎朝繰り返し行われていた。

「・・・もちろん、行くさ」

 耕輔は雅人をしばらく見つめていると、踵を返しクローゼットへと歩いていった。

 この雅人の返答も毎日なのだ。






 その事故は、ある日突然起こった。

「・・・え?」

 耳で聞いたことが信じられなかった。

 あの後、雅人はいつも通りの時間にいつも通りに大学へと出かけていった。

 そして、いつも通りに講義に出席していたのだが、耕輔によって持たされていた携帯が突然鳴り出した。

 どうせ、携帯に掛けてくるのは耕輔しかいないので、雅人は取ろうか迷ったが、少し遅れて取ることにした。

「・・・はい」

 しかし、それは思いがけず耕輔ではなく・・・。

「え・・・?病院?」

 耕輔が事故に遭ったらしい。

 詳しいことは病院で・・・、と言われた雅人は講義が終った後に病院へ向かうこととなった。

 病院でそのことを知った時の雅人の反応は、まさか現実に起きるなんて、だ。

「え・・・。記憶が・・?」

 覇気のない耕輔。

 項垂れているようで、その視線は雅人を全く見ていなかった。

「・・・何も、覚えていない・・の?」

 耕輔がコクリと頷く。

 医師の話では、耕輔の乗っていた単車と赤信号を無理して渡って来た大型トラックとの衝突らしい。

 大きな事故にしては外傷も少ない耕輔。したといってもかすり傷程度らしい。

 耕輔に・・・記憶が、無い・・・?

 病室に入る前、何度も雅人の頭の中に木霊するものがあった。



―――ドウシテ 死ナナカッタンダ・・・・・・



 死んでくれれば楽だった。

 この苦しい生活から抜け出せる。元の暮らしに戻れる。

 耕輔を知る前の自分に・・・・・・。

 しかし、その男も今は記憶を失っている。

 そうだ・・・こいつは記憶喪失・・・・・・。

「俺・・・。お前・・・は・・・?」

 戸惑った表情の耕輔は、救いを求めるように雅人を見つめた。

 息が詰まる思いに潰されそうになりながら雅人は言った。

「・・・覚えてるかな・・・。事故に遭ったこと・・・」

 うっすらと「ああ・・・」だとか「いや・・・」としか言わない耕輔。

 本当に記憶がないらしい。

「・・・俺が事故に遭ったことは解かったよ。・・・それで、お前・・・は?」

 耕輔とは思えないほど、その視線は弱々しい。

 額に溜まる汗を拭い、雅人の喉が緊張に鳴る。

「・・・同じ大学で・・・たまたま通りかかっただけなんだけど・・・」

 心臓が高鳴る。

 逃げられるかもしれない。

 このまま記憶がないのなら・・・――。

「・・・そうか」

 耕輔は考え込むようにすると、窓の外を見て悪かったな・・・と一言呟いた。

 その時、漠然としていなかった雅人の考えが次第に大きく膨らんでいくのが手にとるように解かっていた。

「・・・じゃあ・・・。僕はこれで・・・。・・・はやく良くなるといいね」

 思ってもみないことを口に出してみた。

 もし記憶が戻り、自分が逃げようとしていた・・・なんて事がばれたらただじゃ済まないだろう。

「・・・待てよ」

 ビクリと躯が震えた。

 雅人が部屋を出る時に耕輔が声を掛けたのだ。

 威圧的なその声は、まるで記憶を失っていないかのように以前と同じで雅人を恐怖を思わせる。

「・・・・・・なに?」

 もう二度と見たくない顔だったが不自然ではないように躊躇いがちに部屋を振り向いた。

 記憶を失っている所為かそこにいる耕輔は酷く寂しげで、雅人に騙している・・・という罪悪感を思わせる。

 だが・・・――。

「いや・・・。悪い・・・何でもない」

 そういったきり、耕輔はチラリとも雅人を振り向くことはなかった。

 雅人はその様子を無言で見ていたが、やがて部屋から出て行った。

 ここで行かなくてはヤツから逃げられない。

 もうあんなことは・・・・・・嫌だ。






 何事も無かったかのように月日は進んでいく。

 まるであの悪夢が嘘のようだった。

 大学から自宅へと帰る道のりをぼんやりとしながら歩く。

 耕輔とはあれから一度も会っていない。

 病院にもいかなければ耕輔も大学を休んでいた。

 あの事故からはや3ヶ月。

 今から考えてもやはり解からない。

 何故、耕輔は雅人を襲うようなことをしたのだろうか。

 今となっては関係のないことだったが、ふとした時に考えてしまう。

 雅人はポケットから家の鍵を取り出すと鍵穴に差し込んだ。

 視線を落として鍵を開けることに集中する。

 その時自分の躯を覆い隠すような影に雅人は気がついた。

「――っ!?」

 振り返るとそこには見慣れた人物が立っていた。

 雅人は目を見開いてその人物を見詰める。

 脚がガクガクする。躯の震えが止まらない。

 その場から、離れることすら出来なかった。

 しばらくお互いを見詰めていた。

 そのうち、雅人は何も言おうとしない耕輔に、ビクビクとしながらも聞いた。

「・・・き、記憶、戻ったの・・?」

 その瞬間、耕輔の眉間に皺が寄った。

 同時にその腕が上がるのを雅人は視線の隅に捉える。

「や・・・っ」

 殴られる。・・・そう思ったのだ。

 しかし、来るはずの衝撃はいつになっても来なかった。

 そのかわり、気がついたらその腕に抱きこまれていた。

「な・・・こ、う・・・?」

 耕輔は雅人を抱き込んだまま家の中に入っていく。

 寝室の扉を乱暴に開けると雅人をベッドの上に降ろした。

 きっと耕輔は記憶を取り戻したのだろう、と雅人は思った。

 だから、嘘をついた雅人に怒って以前のように抱こうとしているのだ、と。

 雅人は観念して目をきつく閉じる。

 早く終わればいいのに、と。

 諦めにも似たその仕草に、耕輔の腕がピタリと止まった。

 そうとも知らない雅人は未だに腕で顔を隠したままだった。

「・・・そんなに俺が嫌なのか?」

 その声は病室で聞いた弱々しい声と同じだった。

 うっすらと目を開けた雅人はその口唇を噛み締めている耕輔をみて息を詰めた。

 そして、次の瞬間目を大きく見開いた。

「・・・俺は記憶を失ってなんかいない」

 捕まれた腕が痛い。

 見詰める耕輔の視線が痛かった。

「・・・何」

 頭の中が真っ白で上手く理解できずにいた。

 思考が固まったまま躯も固まっている雅人に、耕輔は黙って釦を外しにかかる。

 その掌が柔肌に触れたとき、雅人はハッと我に返った。

「やめ・・・ッ」

「大人しくしてろッ!!」

 派手な音が鳴った。

 呆然として雅人は再開された愛撫をただ受けていた。

 時間差で襲ってきた頬の痛みがジンジンと痺れている。

 下半身を暴かれ反応もしていないものを無理矢理に刺激され、しまいには最奥の蕾に指を突っ込まれて雅人は頬に涙が流れるのを感じていた。

 声も無く泣いている雅人に気付いた耕輔は、雅人の躯を弄る手を止めた。

「・・・愛されてないことぐらい知ってたさ。だから、お前が望むのなら逃がしてやろうとも思った」

 あれは賭けだったんだ、と呟く耕輔に、雅人は視線を外したままその静かな声を聞いていた。

「けど・・・ッ!!・・・けど、やっぱり俺は・・・っ」

 不意に口唇に温かいものがぶつかった。痛いほど強かった。

 舌を絡まされるまま、雅人は耕輔に成すがままの状態でボーっと考えていた。

 この男は自分のことが好きだったのだ、と今更にして思う。

「逃げたかったら逃げろよ。・・・それでも俺は手放したりしないけどな」

 そう言って再び口唇を寄せた耕輔に、雅人は腕を耕輔の背中にそっと回した。

 驚いたような耕輔だったが、掴んでいた雅人の腕を離してその頬を撫でた。

 ずっと耕輔のことが気になっていた。

 いない耕輔を探しては溜息を吐いていたのだ。

 日常の生活にも耕輔がいて当たり前の生活だ。

 その耕輔に慣れた生活に、少しだけ・・・もう少しだけ一緒に過ごしてもいいかもしれない。

 そう、考えてしまったのだ。

「じゃあ・・・逃げたくなったら逃げる」

 真っ直ぐに告げた雅人は、次の瞬間珍しいものを目にする。

 耕輔の微笑った顔を見るのは初めてかもしれない。

top

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送